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横浜地方裁判所川崎支部 昭和50年(ワ)85号 判決

原告

新谷千恵

原告兼原告新谷千恵法定代理人親権者父

新谷征吉

原告兼原告新谷千恵法定代理人親権者母

新谷マキ子

右訴訟代理人

杉井厳一

篠原義仁

根本孔衛

児嶋初子

永尾広久

村野光夫

右訴訟復代理人

畑谷嘉宏

被告

国家公務員共済組合連合会

右代表者理事長

大田満男

右訴訟代理人

尾崎重毅

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  原告ら

1  被告は、原告新谷千恵(以下「原告千恵」という。)に対し金三、〇〇〇万円、同新谷征吉(以下、「原告征吉」という。)、同新谷マキ子(以下、「原告マキ子」という。)に対し各金一、〇〇〇万円およびこれらに対する昭和五〇年四月二五日以降各完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。との判決ならびに仮執行宣言

二  被告

主文同旨の判決

第二  当事者の主張〈以下、事実省略〉

理由

第一請求原因1(一)(二)(当事者)の事実は当事者間に争いがない。

第二

一原告千恵は、昭和四六年一〇月二五日一四時二七分ころ被告病院で出生したが、在胎期間二八週一日、生下時体重一、二七五gの未熟児であつたため、直ちに同病院小児科において、同科医長岡本義明医師、新保敏和医師らのもとで四二日間保育器に収容され、この間同月二五日から同年一一月一日までの間と、同月一一日から同月一三日までの間酸素の投与を受け、同年一二月六日コット(かごベッド)に移され、同月二七日体重三、〇〇五gで退院したことは当事者間に争いがなく、〈証拠〉をあわせれば、原告千恵は、被告病院で保育されている間に未熟児網膜症(後水晶体線維増殖症。以下「本症」という。)に罹患し、左眼を失明したうえ、右眼は弱視、斜視、眼球震盪等の障害を生じたことが認められる。

二また、前記岡本、新保両医師が、昭和四六年一〇月二七日原告千恵の右足首の静脈を切開し、同日から右部分に細管を挿入しアッシャー液の点滴を実施したことは当事者間に争いがなく、〈証拠〉をあわせれば、原告千恵は、右細管部分に炎症を起こし、同部分より下腿内側全面にわたり皮膚、皮下組織の壊死を招き、瘢痕を残すに至り、右瘢痕部分の筋肉が落ちてひきつれた状態になつていることが認められる。

第三ところで、〈証拠〉に、当事者間に争いのない事実を合わせると、次の事実が認められる。

一被告病院の診療態勢

原告千恵は、昭和四六年一〇月二五日、被告病院において出生し、後記認定のとおり診療を受けたが、被告病院における当時の診療態勢は次のとおりであつた。

被告病院は、内科、外科、産科、小児科、眼科、耳鼻科等を有する総合病院であるが、昭和四六年一〇月当時、新生児の保育は小児科が担当していた。小児科を担当する医師は、岡本医師(医長)、喜里山医師、新保医師(研修医)の三名であり、新生児の保育を行なう新生児室には完全閉鎖式保育器五台、コット二〇ないし二五台が備えられ、生下時体重二、〇〇〇g以下の未熟児(低出生体重児)を保育器に収容する方針がとられていた。

眼科は、宮永医師(医長)と警察病院等から週一回手伝いに来る非常勤医師一名とで担当しており、すでに昭和四四年六月県下の他の病院に先駆けて購入した光凝固装置を備えていた。

被告病院において各科間の連絡は、他科の医師の診療を受けたい場合には他科依頼の用紙にその旨記載して連絡をとることにしていたが、被告病院は中規模の総合病院であることもあつて医局が各科独立していなかつたため、複数の科の診療を要する症例については、各科の医師が医局内で直接相談して方針を定め診療をすすめることも多かつた。

原告千恵の保育は、小児科の岡本医師、新保医師が担当したが、新保医師は当時研修医であり、岡本医師の指導、指示のもとに診療にあたつた。

二原告千恵の診療経過

1  原告千恵の出生から退院までの経過

(一) 原告マキ子は妊娠後の診察によつて分娩予定日昭和四七年一月一六日とされていたが、妊娠七ケ月頃から性器出血が続いたため同年九月三〇日から被告病院に入院していたところ、前置胎盤による出血、前期破水のため、同年一〇月二五日一四時二七分腹式帝王切開術を受け、原告千恵を分娩した。

(二) 一〇月二五日

出生時の原告千恵の状態は、在胎期間二八週一日、体重一、二七五g、身長四〇cm、全身所見は、チアノーゼ(+)、一般状態・活動は良好、脈搏・呼吸は規則的、心雑音なし、呼吸音正常、モロー反射(+)であつた。

原告千恵は直ちに保育器に収容され、器内温度三四度、湿度一〇〇%に保たれ、酸素を毎分五l(以下、酸素流量は一分あたりの投与量を示す。)投与された。保育器収容当初は、呼吸は不規則で体色がやや蒼白であつたが、酸素濃度、保育器内温度の上昇とともに右状態は改善された。体温36.1度、呼吸数毎分六四(以下、数字は一分間当りのものを示す。)であり、両側胸部に陥没呼吸が見られた。

(三) 同月二六日

一時、酸素を三lに減量した。体色は良好であり、時々四肢運動も見られ、時折陥没呼吸、シーソー様の呼吸があるが比較的落着いた状態であつた。血液検査、血液ガス検査(かかと付近より動脈血と静脈血との混合したものを採血した)を実施した結果、血糖77.0mg/dl(正常)、PO234.0mmHg、PH7.292(やや酸性)であつた。経鼻カテーテルでプレミルクの投与を開始した。

一六時三〇分、無呼吸発作を起こし二〇秒間程呼吸停止しチアノーゼが出現した。刺激を与えたところ回復したが、その後も呼吸は浅表で呻吟が認められた。酸素を五lに増量したが、夜間二〇ないし三〇秒間の無呼吸発作を繰り返した。呼吸数は四二ないし五六であり、体色は良好だが、全身浮腫気味、顔面黄疸気味であつた。

(四) 同月二七日

前日より酸素五lの投与を継続していたところ、チアノーゼが見られるが体色良好で啼泣も元気よくなつたので、九時三〇分酸素を三lに減量した。その後、全身浮腫(特に両下肢著明)、陥没呼吸が見られるが、体色良好で、四肢運動、啼泣が認められ、状態に特に変化はみられなかつた。体重一、一六五g、呼吸数は四八ないし五六であつた。

酸血症改善、脱水防止、糖分補給のため、午後、右下肢に静脈(大伏在静脈)切開術を施行してポリエチレンカテーテルを下腿中央位まで挿入し、アッシャー液の静脈点滴(一日八〇cc、一時間当り三cc)を開始した。点滴部位は、カテーテルを絆創膏で固定したうえ、抜脱防止のためシーネ(副木)をあて包帯で巻いて固定した。

(五) 同月二八日

前日同様酸素三l投与、点滴を続行した。啼泣、四肢運動あり、体色も良好であるが、依然チアノーゼが見られ、時折陥没呼吸を起こすことがあつた。呼吸数は四二ないし五二であつた。

(六) 同月二九日

前日同様酸素三lを投与した。依然チアノーゼが見られたが、四肢運動は活発で、啼泣も大きかつた。点滴は順調に滴下していたが、滴下量が一時間七、八ccと多目であつた。二二時、点滴部位に腫張を認め、新保医師の指示で点滴を中止した。下肢の圧迫を解くため包帯を除去すると水疱ができていた。呼吸数は四八ないし五六であつた。

(七) 同月三〇日

前日同様酸素三lを投与した。全身状態は前日と同様で特に変化がみられなかつた。点滴部位の下肢の腫張が見られ、静脈切開側の下腿中央に壊死様の変色部を生じたため、九時四〇分カテーテルを抜去した。抜去後下肢の腫張が軽減してきた。患部を穿刺したが膿が認められなかつた。静脈炎を疑い、リバノール湿布し、細菌感染に対処するため抗生物質ケフレックスを経口投与した。呼吸数は四〇ないし四四であり、体温は34.2度ないし三六度と前日に比べて低かつた。経鼻カテーテルからのプレミルクの投与をミルク投与に切り換えた。

(八) 同月三一日

酸素三lを投与した。チアノーゼが消失し、その他全身状態は前日と特に変化がみられなかつた。前日同様右下肢に腫張があり、リバノール湿布を交換した。呼吸数は三九ないし五四であつた。

(九) 一一月一日

全身状態は前日と同様であり、一一時三〇分酸素を一lに減量し、一六時三〇分投与を中止したが、状態に特に変化はなかつた。体重は一、一四〇g、呼吸数は二八ないし三八であつた。リバノール湿布を交換した。

(一〇) 同月二日以降同月九日

全身状態に特に変化は認められなかつた。呼吸数は、同月二日三三ないし五二、同月三日三六ないし四四、同月四日三八ないし四二、同月五日三五ないし五七、同月六日四二ないし五二、同月七日四二ないし四九、同月八日四〇、同月九日四〇ないし四四であつた。体重は同月四日一、一九〇g、同月五日一、二二〇g、同月八日一、二九〇gであつた。同月六日、岡本医師は、原告マキ子に対し、原告千恵の症状を説明した。

右下肢部は、毎日リバノール湿布を交換した。腫張は次第に減つてきたが、壊死を起こし、表面の皮膚の変色がはつきりしてきたため、同月五日、被告病院外科の谷医師の診察を受けた。谷医師は、閉塞性静脈炎に起因する循環不全によるものと診断し、エルエース軟膏を使用することとし、以後毎日診察治療した。しかし、同月九日には患部の筋膜が見える程の状態となつた。膿の培養試験を依頼し、同月一二日判明した結果によると、腸球菌、バクテリウム多数が検出された。

(一一) 同月一〇日

九時五〇分、無呼吸発作を起こし全身蒼白もなり、口囲にチアノーゼが出現した。すぐに回復したが呼吸は不整であり、呼吸数は四四ないし六二であつた。体重は一、三二〇g。下肢について、谷医師が診察し、肉芽がきれいになつた時点で皮膚移殖手術を実施することを考えたが、同日麻酔科医師が診察した結果、現在の全身状態では手術に耐えられないということであつた。

(一二) 同月一一日

一五時四〇分、呼吸停止をきたし、全身チアノーゼを生じた。酸素五lを投与したが、呼吸数が六ないし八しかない状態、二〇ないし三〇秒間の無呼吸発作を起こすなど呼吸が安定しなかつた。一七時三〇分、新保医師の指示で酸素を三lに減量した。チアノーゼは消失したが、呼吸は不規則で顔色、全身色がすぐれなかつた。呼吸数は三二ないし五六であつた。下肢について整形外科の宮本医師の診察を受けたが、症状は表面的であり、整形外科治療の必要はないとの診断であつた。

(一三) 同月一二日

前日より酸素三lを投与していたが、体色は良好だが時折陥没呼吸が見られ呼吸は不規則であつた。呼吸数は四二ないし五四であつた。下肢について谷医師が診察し抗生剤コリマイシンを創面に注入した。患部の膿の培養試験を依頼し、同月一六日結果が判明したが、ぶどう球菌、腸球菌少量が検出された。

(一四) 同月一三日

前日同様酸素三lの投与を継続していたが、体色が良好であるので、一〇時一〇分岡本医師の指示で二lに減量、一一時に一lに減量、一二時投与を中止した。同日の全身状態は、外科医診察時軽度チアノーゼが出現した他、特に変化はみられなかつた。呼吸数は三六ないし三八であつた。

(一五) 同月一四日以降一二月二七日

全身状態に特に変化はなく良好であつたが、時折呼吸が不規則になることがあり(一一月一九日)、一二月八日、哺乳中無呼吸発作を起こしチアノーゼを生じたため、酸素投与し、約一五分後に回復したことがあつた。一二月三日、保育器からコットへ移した。呼吸数は概ね三五ないし四二位で安定し、体重も順調に増加し、一一月二二日一、六一〇g、一二月六日二、〇二五g、一二月二七日三、〇〇五gであつた。一二月三日より経口哺乳を開始した(但し、一二月八日から一〇日は経鼻カテーテルによる)。

下肢については、外科の谷医師が治療にあたり、創部にコリマイシンを注入し、エルエース軟膏を使用した結果、症状は固定、瘢痕化してきた。

岡本、新保医師は、原告千恵の体重も約三、〇〇〇gとなり無呼吸発作のおそれがなくなつたものと判断し、小児科としては一二月二四日には退院可能と考えていたが、外科医の下肢部治療の許可を待つて、原告千恵は一二月二七日被告病院を退院した。

2  原告千恵の再診療、入院の経過

(一) 昭和四七年二月一日

原告千恵は、被告病院眼科外来に来院し、宮永医師の診察を受けたところ、左眼に網膜の束状剥離が認められ、未熟児網膜症の疑いありとの診断を受け、入院をすすめられた。

(二) 同月二日以降同月一四日

原告千恵は、同月二日、眼底の精密検査のため被告病院眼科に入院した。同月五日、精密検査時に無呼吸発作を起こし、呼吸停止し、強くチアノーゼが出現したため、同病院小児科へ転科した。

小児科において、喜里山、新保医師らが酸素投与等の治療をした結果回復した。原告千恵は同月一四日まで小児科に入院し、脳波、心電図の検査を受けたが、異常はなかつた。

原告らから宮永医師へ、国立小児科病院へ転院したい旨の申し出があつたので、同医師は右病院へ紹介状を書いた。

3  転院後の原告千恵の診療経過

(一) 昭和四七年二月二七日、原告千恵は国立小児病院において診察を受けたが、眼底検査によれば「両眼網膜の瘢痕性萎縮が見られ、右眼は視神経乳頭が外方に牽引されており、また左眼は水晶体の外側後面に白色線維状増殖が見られ、視神経乳頭より外方にむかう網膜皺襞が存在する。既に活動性病変はなく、病状は停止し瘢痕期にあり、光凝固その他の治療の適応はない。」との所見であつた。

(二) 以後昭和四七年一〇月まで一ないし二か月間隔で右病院に通院し、その後は一年に一回の検診を行なつているが、特に変化はなかつた。視力は年令的に正確な測定は不可能であるが、かなり高度の視力障害が推測される。

(三) また、昭和四七年四月五日以降、定期的に右病院整形外科に通院するが「脳性麻痺により両上下肢に痙直性麻痺著明で、両足は尖足位を呈し歩行不能である。右下腿内上方に四×五〇cmの瘢痕が存し、瘢痕と皮下は癒合し著明に陥凹する。右膝との関係は、伸展時に瘢痕の一部が軽度にひきつれる感じで、現在のところ瘢痕による著明な拘縮は認められない。」という所見である。

第四不法行為責任について

一原告らは、原告千恵が前記の各障害を残すに至つたのは、被告病院において保育、診療を受けるに際し、被告担当医師らに過失があつたためであるから、被告は不法行為責任を負うべきである旨主張する。

たしかに、一般に、医師が患者の診療にあたる場合には、患者の病状の具体的状況に応じ細心の配慮をもつて、当時の当該医療分野における医療水準に照らして合理的な診療をなすべき業務上の注意義務が課せられていると解すべきであり、この義務を怠つたときは違法ないし過失ありといわざるをえない。

そこで、右見地からみて被告担当医師らに原告千恵の保育、診療について、違法ないし過失があつたか否かにつき、A本症による視力障害、B右下肢挫傷に分けて検討する。

A  本症による視力障害について

A―一 被告担当医師の酸素療法上の処置について

原告らは、原告千恵が本症により視力障害を生じたのは、被告担当医師らが原告千恵に対し不注意で不適切な酸素投与をし本症に罹患するに至らしめたためであるという。

そこで、まずこの点について検討する。

1 本症について

〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

(一) 本症は、発達途上の網膜血管に起こる血管性疾患で、過剰な血管増殖をもたらし、進行すると網膜剥離から失明を来たすものである。

歴史的には、一九四二年テリー(Ter-ry)が水晶体の後部に黄白色の組織塊が未熟で生まれた乳児に認められたことを報告したことにより知られるようになり、一九四〇年代の後半より一九五〇年代の前半にかけて欧米において未熟児に酸素を自由に使用していた時代に多発し、罹患した乳児の多数が失明したが、酸素使用を厳しく制限しはじめた一九五四年以降は発生頻度が劇的に減少した。

わが国では、未熟児保育の遅れもあつて、欧米で本症が多発していた時期にはほとんど症例の報告がなかつたこともあり、過去の疾患と考えられ、水晶体後部線維増殖症(retrolental fibroplasiaの訳語)と呼ばれて文献的に知られるにとどまつていたが、昭和四〇年頃から酸素療法の発達にともない本症がわが国にも発生していることが確認されて、次第に本症の研究も進み、その名称も未熟児網膜症(あるいは未熟網膜症)と呼ばれるようになつた。

(二) 本症の病態・臨床経過は多様であり、従来欧米の学者が種々の分類を試み、わが国ではオーエンスの分類――臨床経過を活動期(ⅠないしⅤ期)、回復期、瘢痕期(ⅠないしⅣ度)に分類する――が用いられることが多かつたが、現在では昭和四九年度厚生省研究班の分類によつて説明される。

右厚生省研究班の分類は、臨床経過を大きく活動期と瘢痕期に分類し、活動期を臨床経過、予後の点より更にⅠ型、Ⅱ型、混合型に大別する。

Ⅰ型は、主として耳側周辺に増殖性変化を起こし、検眼鏡的に血管新生、境界線形成、硝子体内に滲出、増殖性変化を示し、牽引性剥離へと段階的に進行する比較的緩徐な経過をとるもので、自然治癒傾向が強く、1期(血管新生期)、2期(境界線形成期)、3期(硝子体内滲出と増殖期)、4期(網膜剥離期)に細分される。

Ⅱ型は、主として低出生体重児に見られ、未熟性の強い眼に発症し、血管新生が後極より耳側のみならず鼻側にも出現し、それより周辺側の無血管帯が広いものであつて、段階的な進行経過をとることが少なく、強い滲出傾向を伴ない、比較的速い経過で網膜剥離を起こすことが多く、自然治癒傾向の少ない予後不良の型のものをいう。

混合型は、Ⅰ型、Ⅱ型の中間的な型である。

瘢痕期は1度(眼底後極部に著変のないもの。大部分視力は正常である。)、2度(牽引乳頭を示すもの。視力障害を示すが、日常生活は視覚を利用できる。)、3度(網膜襞形成を示すもの。視力は0.1以下で弱視または盲教育の対象となる。)、4度(水晶体後部に白色の組織塊として瞳孔領より見られるもの。視力障害は最も高度で盲教育の対象となる。)に分けられる。

(三) 本症の原因としては、かつては母体または患児の先天性あるいは環境因子説、ビタミンE欠乏説、ウイルス感染説等が唱えられたが、これらは現在では否定的であり、本症の原因に酸素が重要な因子になるものとされている。

そして、本症と未熟児に対する酸素療法との関係については、未熟な血管ほど酸素投与により強い収縮を起こし、血管閉塞を来たしやすいが、ヒトの網膜は胎生四ケ月までは無血管であり、四ケ月以降に硝子体血管より網膜内に血管が発達し、胎生六、七ケ月においては血管発達は最も活発であり、胎生八ケ月では網膜鼻側の血管は周辺まで発達しているが、耳側では鋸歯状態まで達していないという発達経路を辿るから、未熟児では在胎週数の短かいものほど網膜血管の未熟度が強いことになり、酸素による障害は、在胎期間、酸素の濃度(但し、環境酸素濃度より、動脈血PO2濃度と関係するとされる。)、投与期間と強い関係を有するといわれ、その原因、発生機序の詳細についてはまだ十分に解明されていないものの、酸素が本症の原因となることについては異論がないといつてよい。

2 未熟児に対する酸素療法について

〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

未熟児の肺は、成熟児に比してその発育が遅れており、特に肺胞弛緩機転が不十分であることが多く、出生の初期においてしばしば呼吸障害を認め、その結果、肺出血、頭蓋内出血等を起こして死亡したり、低酸素症のため脳性麻痺となることが少なくない。このような呼吸障害に対処するために、酸素投与が有効であることは広く知られ、呼吸障害を有する未熟児に対しては酸素療法が不可欠な治療法として行なわれ、未熟児の生存率が高まつた。

しかしながら、前記認定のとおり、未熟児に対する過剰な酸素投与は、本症を発症させることがあり、未熟児に対する酸素療法においては、本症の発生率と脳性麻痺の発生率との間には、反比例的な関係があつて、酸素投与期間の長いものには本症が多いが脳性麻痺が少ないことが指摘され、未熟児保育にあたる産科医、小児科医は、眼か、死または脳か、という二律背反的な問題に直面することになり、未熟児に対して如何にして適切な酸素療法を実施するかが大きな課題となつてきた。

3 原告千恵の出生当時の酸素療法

〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

(一) 昭和四六年一〇月当時、わが国における小児科医の間において、未熟児に対する酸素療法の指針は、研究者、臨床医家によつて多少見解が異なる点もあつたが、概ね次のようなものとされていた。

(1) 未熟児に対してルーチンに酸素投与を行なつてはならない。

(2) 酸素は未熟児に全身性チアノーゼあるいは呼吸障害がある場合にのみ投与する。

(3)酸素濃度の決定は、臨床的にはワーレイとガードナー(Warley and Gairdner)の推奨する次の方法に従う。チアノーゼが消失するまで保育器内の酸素流量を徐々に上げて、次いで酸素流量を下げてチアノーゼが再び出現するときの酸素濃度を測定し、これよりわずかに高い濃度に維持する。

(4) 従来、保育器内の環境酸素濃度は四〇%以下にすべきであると強調されてきたが、本症の発生は環境酸素濃度より動脈血のPO2と関係あると考えられるから、呼吸障害があるときには四〇%というラインにとらわれずチアノーゼが消失するまで酸素濃度を高めてよい。

(5) 酸素投与中は、一日数回酸素濃度を測定し、酸素投与の必要がなくなつたら速やかに中止する。

(二) 本件当時には、未熟児に対する酸素投与の指針は右のとおりとされていたが、すでに昭和三〇年代にわが国においても未熟児に対する酸素の過剰投与の危険性が広く知られ、酸素投与の指針としてイギリスのクロス博士(Cross)の研究成果をふまえて「ルーチンの酸素投与を避け、著しい呼吸不整、頻発する無呼吸発作、チアノーゼがあるときのみ酸素を使用する。酸素濃度は保育器内の環境酸素濃度を指標として三五ないし四〇%に保つようにし、症状が改善されたら直ちに酸素の使用を中止する。」旨提唱され、右指針に従つて酸素投与が実施されていた。

ところで、昭和四〇年代に入ると、本症の発症は保育器内の酸素濃度よりも未熟児の動脈血PO2濃度との関係が問題になることが知られ、酸素療法が危険であるのは重症のIRDではなく、むしろ酸素療法によく反応する軽症のIRDとIRDの回復期であるとの研究成果等から前記指針が示されるようになつた。

右研究成果からすれば、理論的には、酸素療法は動脈血PO2濃度の経時的監視下でなされることが理想である旨唱えられたが、実際には、動脈血PO2濃度の安全基準値が確定されていないこと、動脈血PO2濃度の測定が設備、技術の点から困難であることから、臨床的には前記方針によるべきものとされた。

(三) しかし、酸素療法は、個体差、症状の差異という治療一般に存する問題点の他、酸素の投与不足は未熟児に死または脳障害をもたらし、過剰投与は本症を発症させるおそれがあるため、未熟児に対する安全な酸素投与方法、とりわけ無呼吸発作を反復する未熟児に対する安全な酸素投与方法が極めて困難であることは、未熟児保育の研究者、臨床医家の多くが述懐するところであつた。そして、例えば、わが国において未熟児保育に関して最高水準にあるといわれる国立小児病院において、昭和四六年当時、前記基準に従つた酸素療法を実施した場合でも、生下時体重一、五〇〇g以下の極小未熟児では、死亡率が約三〇ないし三五%、脳性麻痺の発生率が約二〇%、瘢痕を残す本症の発症率が約一%という状況であつて、未熟児保育の研究者、臨床医家の間においては、有効かつ安全な酸素投与法が完全に確立されるまでには、未解決の課題が多く残されているとの認識も強かつた。

4 被告担当医師の原告千恵に対する酸素投与

〈証拠〉に、前記認定事実を合わせると、次の事実が認められる。

(一) 原告千恵の診療経過は、前記認定のとおりであり、岡本、新保両医師は、原告千恵に対し次のとおり酸素を投与した。岡本医師は、保育器を購入時、保育器に酸素を流した場合、酸素流量と酸素濃度との関係は、毎分一lの時約二五%、二lの時約三〇%、三lの時約三六%、四lの時約四二%、五lの時約四五%となることを確認しており、右両医師は、右関係を念頭において酸素流量を決定していた。

(1) 昭和四六年一〇月二五日一四時三〇分ころ(出生直後)から翌二六日一時まで  五l(約四五%)

同月二六日一時から一六時三〇分まで  三l(約三六%)

同日一六時三〇分から翌二七日九時三〇分まで  五l(約四五%)

同日九時三〇分から一一月一日一一時三〇分まで  三l(約三六%)

同日一一時三〇分から一六時三〇分(中止)まで  一l(約二五%)

(2) 一一月一一日一五時四〇分から一七時三〇分まで  五l(約四五%)

同日一七時三〇分から同月一三日一〇時一〇分まで  三l(約三六%)

同日一〇時一〇分から一二時(中止)まで  一l(約二五%)

(二) 岡本医師は、昭和四六年一〇月当時、未熟児に対し酸素投与する場合に本症が発生する危険性があることについて十分に認識しており、昭和四四年に東京大学医学部の出した小児科治療指針(東京大学教授高津忠夫監修「小児科治療指針改訂第六版」)に従つて酸素投与を行なつており、被告病院において二週間以上酸素投与を継続したことがなかつた。

右指針は「チアノーゼや呼吸困難を示さない未熟児に対しても総て酸素を供給すべきかについては議論がある。出生後暫くの期間における未熟児の血液酸素飽和度は低値を示し、また肺の毛細管網の発達が不充分なために、酸素の摂取が不良であることが予想され、一度無酸素症に陥れば、無酸素性脳傷害や無酸素性出血を起こす可能性が考えられるのでルーチンに酸素投与を行なうこともあるが、この場合には酸素濃度は三〇%以下にとどめる。酸素投与の期間はなるべく短かい方がよい。しかし、呼吸窮迫症候群やチアノーゼの認められる場合には高濃度の酸素を使用する必要がある。酸素の与え方は閉鎖式保育器を用いて保育器内の酸素濃度を高めるのがよい。酸素使用中は一日数回環境気体の酸素濃度を測定する必要がある。」というものであつて、前記認定の右当時の酸素療法の指針に沿うものであつた。

(三) 岡本、新保医師は、原告千恵が生下時体重一、二七五gの極小未熟児であるうえ、出生直後、呼吸が不規則で、顔色、体色が悪かつたため酸素投与することとし、四〇%を超える酸素投与が必要と考え、毎分五lの酸素を保育器に流したが、原告千恵の状態を見て減量し、一週間以内、長くとも二週間以内に打切りたいと考えていた。投与開始後原告千恵は、次第に状態が安定してきたが、呼吸困難の顕れの一つである両側胸部陥没呼吸が見られ、呼吸数も多い等の総合所見から、五lの酸素投与を続行することにした。酸素投与中は、岡本医師の指示を受けた看護婦が、概ね三時間おきの授乳時に、原告千恵の状態、酸素流量の確認をしていた。

右医師は、昭和四六年一〇月二六日一時から酸素を三lに減量してみたところ、時折陥没呼吸が見られるものの一応状態は安定していたが、一六時三〇分に、原告千恵が最初の無呼吸発作を起こしたので酸素を五lに増量した。しかし、原告千恵は、依然呼吸は浅表で、呻吟が続き、同日の夜間にかけて無呼吸発作を繰り返す状態であつたが、同月二七日朝には若干のチアノーゼ、陥没呼吸が認められるが、体色良好で状態が回復してきたので、右医師は酸素を三lに減量した。一一月一日になると、原告千恵は、チアノーゼも消失し状態が安定してきたと認められ、また、極小未熟児にとつて危険な時期の一つとされる生後一週間を乗り切つたので、右医師は、酸素を一旦一lに減量したのち、投与を中止した。中止に際し、岡本医師は、原告千恵が呼吸中枢が未熟で無呼吸発作を繰り返した極小未熟児であり、総合所見からすれば酸素投与を続けてみたい患者であるが、本症発症の危険性を考え、酸素投与を中止し、呼吸状態の変化の様子を見るのが相当と判断した。

原告千恵は、右酸素投与中止後しばらく状態に特に変化を見せなかつたが、一一月一〇日に軽い無呼吸発作を起こし、更に翌一一日に二〇ないし三〇秒間の無呼吸発作を起こし、全身チアノーゼを生じたため、岡本、新保医師は、一五時四〇分、五lの酸素投与を再開し、二時間後三lに減量したが、依然呼吸不規則、陥没呼吸等がみられ呼吸状態が不安定であつたので、同月一三日まで投与を続行したものである。

5 被告担当医師の過失の存否について

(一) 岡本医師および同医師の指導下に研修中であつた新保医師は、前記認定のとおり原告千恵に酸素投与したが、未熟児に対する酸素投与と本症発症との関係からすれば、原告千恵が本症に罹患したのは、右酸素投与に起因すると推認され、これを左右するに足りる証拠はない。

(二)(1) そこで、右医師の酸素投与上の処置に違法ないし過失が存したか否かが問題となる。

ところで、原告千恵は無呼吸発作を繰り返し、チアノーゼ、陥没呼吸等も見られ、酸素療法の適応の存する症例であつたことは明らかである。そして、酸素投与に際して、右医師は、本症発症の危険性を十分に考慮し、呼吸状態、チアノーゼをはじめとする総合所見を定期的に観察し、随時酸素投与量を増減し、呼吸が比較的安定している時には、環境酸素濃度が約三五%程度になるよう流量を調節するなど、酸素投与量の減量、早期投与中止を図る処置をとつていたものと認められる。

(2) 原告らは、右医師が原告千恵に対しルーチンに酸素投与をなし、陥没呼吸程度の軽度の呼吸障害の場合も適応ありとして酸素投与しており、前記治療指針に反し、この点において過失がある旨主張する。

しかし、酸素療法は、投与不足による死または脳障害、過剰投与による本症の発症という二律背反の要請の中で実施されるものであり、前記認定の本件当時の治療指針は、右要請の中で研究者、臨床医家の間で提唱・実施されていたものであるが、それとて絶対的かつ完全なものでないこと、個々の症例によつて対応が異ならざるを得ないことは、各医家の認めるところであるうえ、酸素投与の指針は、各医家により内容に若干の相異がある。

したがつて、医師が実際の診療にあたつて、その若干の差異の存する治療指針のいずれに従うかは、その指針が当時の医療水準に照らして一応の合理性が認められるかぎり、医師の裁量にかかるものであるし、また、現実に酸素投与にあたる場合、当該患児の呼吸障害等の症状、成熟度をはじめとする個体差、合併症との関係等などの要因に応じて、治療指針に、合理的判断に基づき変容を生じることがあることは、医療行為の性質上当然であるといわざるを得ない。

前記認定事実にてらせば、岡本、新保医師が、前記治療指針を念頭におきつつ、原告千恵の呼吸状態、全身状態等の総合所見から、酸素投与方法、投与量を随時決定しており、その判断が合理性を欠くものでないことも明らかである。

したがつて、右医師の酸素投与上の処置に違法ないし過失を認めることはできない。

A―二 被告担当医師の本症治療上の処置について

次に、原告らは、原告千恵が本症により視力障害を生じたのは、被告担当医師らが過失により原告千恵に対し光凝固法による治療を実施しなかつた等によるものであるという。

ところで、このように光凝固法による治療を実施しなかつた等の不作為につき過失責任を問うためには、その前提として、右不作為と原告千恵の視力障害(結果)との間に医学上因果関係が認められ、更に右不作為が違法、すなわち当時の医療水準に照らし作為義務に違反したといえる場合でなければならない。

しかしながら、本件の場合、原告はまず過失を主張しているので、因果関係の問題はしばらく措き、原告らの主張する治療上の処置(不作為)につき作為義務違反があるといえるかどうか、すなわち違法ひいては過失があるといえるかどうかについて検討する。

1 医療水準について

原告らは、原告千恵が前記視力障害を生じたのは、(1)被告担当医師らは原告千恵が酸素投与を受けた極小未熟児であり本症発症の可能性の高いものであるから、早期から眼底検査を実施して本症の発生進行を観察し適期に光凝固を行なうべきであるのにこれを怠つた、(2)被告病院で光凝固できなかつた場合には実施可能な他の病院へ転院させるべきであるのにこれを怠つた、(3)仮に(1)、(2)の懈怠がなかつたとしても、治療法の存在等につき原告らに説明すべきであるのにこれを怠つた過失によるものである旨主張し、被告は、本件当時光凝固法は本症に対する治療法として未だ確立していなかつたから、原告ら主張の義務はなく、したがつて被告担当医師に治療上の過失がなかつた旨主張する。

ところで、原告らの主張は、被告担当医師らが原告千恵に対し光凝固を実施せず、また、原告千恵が右治療を受けるための配慮を怠つたというものであるが、医師が、ある疾患に罹患した患者に対し、適切な治療法があるのにそれを実施せず、また、受診するための配慮を怠つたという不作為に過失があるとして、その医師に対し法的責任を問うためには、一般的に言えば、(1)当該治療法がその当時の医療水準に照らして確立していること、(2)当時の医療水準に照らし、当該患者に右治療法の適応が存し、かつ医師が右治療法を実施せず、また、他の治療法のみを実施することが合理性を欠くことが必要である。

そして、ある治療法が医療水準に照らして確立したというためには、(1)右治療法が当該疾患に対して有効性を有することが確認されること、(2)右治療法の技術、適応、限界(副作用、後遺症など)が一応明確となること、(3)右治療法の知見が臨床医家の間に普及することが必要であると解するのが相当である。

すなわち、ある治療法が臨床的に実施されるに至るまでには、(1)専門的研究者がある疾患に対しある治療法が医学理論的にみて有効であろうとの仮説を提起した後、(2)右研究者をはじめとする専門的研究者らによる種々の医学的実験、追試を経て有効性が確認されるとともに、(3)治療行為とは人体に対する侵襲となる面も合わせもち、当該疾患の治癒に向けて作用する反面、人体に対し副使用、後遺症等の悪影響を及ぼすことも稀ではないから、これを防止するため当該疾患の病態・原因、合併症等との相関において、治療適応、治療時期、治療技術(手技、薬剤投与量等)を一応確定(医療技術は、新知見発見の連鎖の中で日々進歩、修正されるものであるし、生体を対象とする科学であるから絶対的確定といえることは稀であろう。)することが不可欠であり、(4)右のように一応確定した治療法に関する知見が、学会、医学文献等を通じて、当該疾患の治療を行なう臨床医学分野およびそれと密接に関連する臨床医学分野の医師に普及していき、(5)次いで右治療法が特別の物的設備・医療技術を要する場合には、それらが拡充、取得されていくという過程を経るのが通例であろう。

しかし、もとより医療行為は、生体に対して作用するものであるから、対象に個体差があり治療に対する反応も様々であるし、また、臨床医学的に疾患の病態が一応確定されるといつても実際上は典型例は必ずしも多くなく、合併症の存在等もあつて、試行錯誤の中で日々発展していく性質を有するうえ、治療行為は治療効果と人体に対する悪影響とを合わせもつことが稀でないため、実際に治療するにあたつて、そのいずれを重視するかは医師によつて評価、選択の分かれるところは当然であるとも言え、医学的見地から、何をもつて治療法が確立したとするかは困難な問題を包蔵するが、前記のとおり「医師に対して法的責任を問う前提としての意味における治療法の確立」とは、一応確定した治療法に関する知見が臨床医の間に普及する段階に至つた場合を指すと解するのが相当である。

また、知見の普及を判断するにあたつては、医師は大学等の研究養成機関を終了後、国家資格試験を経て、人の生命および身体の健康管理を目的とする医療行為に従事する高度の専門家であるから、現実に臨床医家が広く当該知見を有しているか否かの見地からのみならず、医師が最善の医療を実施する使命を負うものとして日々進歩する医学知識を修得すべく、自己の専門分野およびこれと密接に関連する分野の医学専門書、医学雑誌等の購読、学会への参加等を通じて研鑽に努むべきことを前提として、医学文献等の発表、学会報告等が存し、これを通じて当該知見を有することが可能であつたか否かの見地から判断すべきであると解するのが相当である。

ところで、ある治療法の知見が当該医学分野およびこれと密接に関連する分野において普及したが、一般の医療機関では常備できない高度の装置や、特殊の技術を要するとかの事情が存するため、実際上は右の治療法を医療機関において実施し得ない場合もあり得るが、それは治療法が確立したかどうかの問題とは別のことであり、右は治療法の確立を前提として、医師が治療を実施する際あるいは転医をすすめる際に配慮すべき注意義務に関する事情にとどまり、当該医師のおかれている社会的、地理的その他の具体的環境、条件(大学医学部または医科大学付属病院か、国公立総合病院か、普通病院か、個人開業医か等)によつて異なるものと解するのが相当である。

これらのことをふまえた上で、本症に対する光凝固法が、当時の医療水準に照らして如何なる段階にあつたかについて検討する。

2、3〈省略〉

4 本件当時における光凝固法の確立の有無について

(一) 〈証拠〉を合わせると、次の事実が認められる。

(1) 光凝固治療の創案者である前記永田誠が昭和四三年三月最初の論文を発表し、光凝固法が本症に対する有力な治療手段となる可能性がある旨提唱して以来本件当時までに三年が経過していたが、この間右永田自身更に一五例の光凝固実施例を追加報告し、右成果を眼科、小児科等の医学雑誌に論文を発表しており、また、右永田の研究を受けて、関西医科大学眼科教室、広島県立病院、九州大学医学部眼科学教室、名鉄病院眼科、国立大村病院眼科、鳥取大学医学部眼科教室、兵庫県立こども病院、外古屋市立大学医学部眼科教室、東北大学医学部眼科教室(冷凍凝固)等の未熟児の先進的研究・治療を行ない、かつ光凝固装置を備えていた医療機関眼科において、本症の専門的研究者らによつて追試がなされた。右追試報告は、「臨床眼科」「日本眼科紀要」「眼科臨床医報」等の眼科医学雑誌を中心にして発表され、いずれも光凝固法が前記永田が主張するように、本症の進行を停止し、治癒させる効果を有するという内容であつた。また、本症の専門的研究者で早くから啓蒙的活動もしていた前記植村恭夫、小児科医前記奥山和男らは、「小児科」「日本新生児学会雑誌」等の医学雑誌に、前記永田らの光凝固法の成果を好意的に紹介し、更に、本件当時までに発刊された医学専門書の執筆担当部分において、光凝固法が現在最も有効な治療法である旨説明していた。このように、本件当時、総じて本症の専門的研究者の間では、光凝固法の有効性を承認する発表が相次ぎ、これを否定ないし批判する発表は認められなかつた。

しかし、一般医学専門書においては、本件当時発刊された権威ある医学専門書の中に本症の治療法として光凝固法が全く触れられていないものも見られ、また、特に最新の治療法、治療方針を医師に紹介する目的で編集された当時発行の医学専門書において、本症の治療法として光凝固法に触れた場合にも、前記永田らの研究報告の存することを簡単に紹介するにとどまり、その効果に対し積極的な評価を与えたり、その治療法の詳細についてまで説明するものはなかつた。

(2) その後も光凝固法の研究がすすめられ、光凝固法の有効性を承認する追試報告、研究報告、学会報告等が「臨床眼科」「小児科臨床」等の医学雑誌に発表され、昭和四七年半ば頃には、本症の専門的研究者の中には、本症の発生の実態がほぼ明らかになり、治療法も理論的に完成し、適期に光凝固を実施すれば本症を確実に治癒できると自ら評価するものが見られた。

しかし、この頃から、本症の専門的研究者の中から、光凝固法に対する批判、反省点の指摘がなされるようになつた。すなわち、光凝固によつてひきおこされた網膜組織の破壊が著しく、治癒後も視機能の損失を必然的に生じるから、光凝固の実施時期、限界の検討が必要であるとの批判、本症は極めて自然治癒傾向の強い疾患であるから、光凝固が本症の進行を止め早期に治癒させる効果が存するとしても、網膜組織を破壊する光凝固の実施には慎重であるべきであるとの批判、本症にはじわじわ進行する型と急速に進行する型とがあり、急速に進行するものには光凝固法が奏効しないのではないかとの指摘がされるようになつた。更に、本症の研究は、オーエンスの分類によつてなされることが多かつたが、右分類は、未熟児に対し酸素を大量に投与していた時代に作られたものであり、本件当時の本症の病態を把握するのには必ずしも適さない点があることもあつて、本症の専門的研究者の間においても本症の病期の分類と眼底所見とが必ずしも一致しないことがあつた。右事情も一因をなして、光凝固の実施時期についても、専門的研究者の間で、「活動期Ⅱ期」「Ⅱ期からⅢ期に移行した時期」「Ⅱ期の終わりからⅢ期」「Ⅲ期」「Ⅲ期のはじまり」「Ⅲ期の初期までに」「Ⅲ期の初期」「新生血管の硝子体進入以前」と見解が分かれ(以上、前記馬嶋昭生の論文「未熟児網膜症に対する片眼凝固例の臨床経過」(臨床眼科三〇巻一号・乙第七七号証)による)、診断・治療基準に混乱がみられ、自然治癒傾向の強い本症に対し、不適切なあるいは不必要な光凝固がなされているのではないかとの批判も提起されるに至つた。

右のような事態を収めるために、前記植村恭夫ら本症の専門的研究者による合同研究がなされ、本症の病態分類、診断・治療基準の一応の統一見解をまとめた厚生省研究班報告が昭和五〇年に発表されたのである。そして、これ以降右診断・治療基準に従つて本症の研究、治療がなされるとともに、右研究報告の未解決の課題を解消すべく、前記森実秀子らによるⅡ型の研究、前記馬嶋昭生による片眼凝固の研究等がなされている。

(二) 右のとおり、本件当時、光凝固法は、本症の専門的研究者の間で追試がなされ、右療法が本症の進行を阻止し、治癒を早める効果を有することが、少なくとも眼科界では承認され、以後も右効果を否定する見解はみられない。

ところで、本症に対する光凝固法は、従来成人の網膜剥離等の疾患の治療に用いられていた光凝固を本症に対して応用したものであるが、本症が進行性疾患であるが極めて自然寛解傾向が強いという特徴をもつこと、光凝固は人工瘢痕を作つて本症の進行を阻止するため成長過程にある網膜の破壊を必然的に伴なう療法であることから、前期永田誠が当初より的確に指摘していたように、本症の病態、病勢の正確な把握、治療適応の判断、治療適期の選択、治療方法(凝固箇所、程度等)に関する課題の解決が不可欠な治療法といえる。右の点からすれば、光凝固法が本症の進行を阻止し、早期治癒させるという有効性の確認およびその知見の普及が認められるからといつて光凝固法が治療法として確立したということはできず、右課題が一応解決し、診断・治療の基準が一応確定し、その知見が普及して初めて治療法として確立したものといいうるものである。

本件当時、光凝固法はその有効性を承認する研究発表が存する一方で、未だその評価を保留する医学文献も少なくなかつたうえ、Ⅰ型Ⅱ型の病態の差異の認識がなく、治療適応の判断、治療適期の選択について、見解の相異のみならず混乱すらみられ、右の点について一応の解決がなされたのは、厚生省研究班報告による診断・治療基準の研究発表によつてであることが認められる。

したがつて、光凝固法は、少なくとも本件当時には、未だ前記課題の一応の解決、診断・治療基準の一応の確定がなされ、その知見が医学文献等を通じて臨床医の間に普及する段階には至つていたとはいえないから、本症に対する治療法として確立していたとはいい得ない。

5 被告担当医師の知見および措置について

〈証拠〉に前記認定事実を合わせると、次の事実を認めることができる。

(一) 岡本医師は、昭和二八年東京大学医学部を卒業後、同二九年に医師資格を取得し、同大学医学部付属病院小児科に勤務し、同三八年から東京養育院付属病院小児科に勤務した後、同四〇年四月から被告病院小児科医長として勤務し、現在に至つている。

新保医師は、昭和四五年京都府立医科大学を卒業後、医師資格を取得し、同年六月から同四七年三月まで被告病院に研修医として勤務していた。現在は、東邦大学医学部講師として免疫学の研究にあたつている。

したがつて、岡本医師の専門診療科目は小児科であり、新保医師は、本件当時は小児科研修医として岡本医師の指導、指示のもとに、小児科診療に従事していたものである。

(二) ところで、岡本医師は、わが国において酸素投与を原因として本症が発生しているとの知見を有し、昭和四五年暮れころ、被告病院眼科の宮永医師の提案を受けて、被告病院において、本症の実態を把握すること、長期間にわたつて酸素投与を続ける場合に検査結果によつて投与量を調整してみることを目的として、生下時体重二、〇〇〇g以下の未熟児に対して、宮永医師に依頼して眼底検査を実施することにした。以来、宮永医師に依頼して、未熟児の退院時(概ね生後一ケ月に該ることが多かつた。)に一回眼底検査を実施していたが、被告病院において長期間酸素投与する症例がなかつたため、入院中繰り返し検査を実施することはなかつた。

しかし、岡本医師は、未熟児の退院時に眼底検査を実施していたものの、本件当時、本症は大部分が自然寛解する疾患であるが、重症例についてこれに対する有効かつ確実な治療法は存在せず、予防に努める他ないと考えていた。すなわち、岡本医師は、右当時までに、本症に対する治療法として光凝固法が存することを他の医師から聞いた印象もなく、昭和四五年一二月発行の「日本新生児学会雑誌」六巻四号誌上の前記植村恭夫の「未熟児網膜症」と題する論文(甲第五九号証参照)を閲読したことがあつたが、右論文中の前記永田誠の創案にかかる光凝固法の紹介については、特に印象をもたなかつた。岡本医師は、その後、昭和四七年六月発行の「小児科臨床」二五巻六号誌上の右植村恭夫の「未熟児網膜症――眼科医の立場から――」、前記奥山和男の「未熟児網膜症――小児科医の立場から――」と各題する論文(甲第七三、七四号証参照)を閲読して、初めて本症の治療法として光凝固法が存することを明確に認識したけれども、右論文において右植村恭夫が光凝固が眼底に障害を残すこと、自然寛解との関係で異説があることにも触れているため、一般医療機関の臨床医が広く光凝固法を実施するためには未だ問題があり、更に研究することが必要であると考え、被告病院の本症患者に対しこれを実施してみようとの考えをもつに至らなかつた。

(三) また、被告病院には、本件当時、かねて光凝固に興味を持ち、未熟児に対し眼科的管理が必要であるとの前記植村恭夫らの提唱についての知見を有し、更に、昭和四五年秋の臨床眼科学会において前記永田誠の「未熟児網膜症の光凝固治療の普及についての提案」と題する講演を聞いて刺激を受けていた宮永医師が眼科にいたためもあつて本件当時まで約一年間生下時体重二、〇〇〇g以下の未熟児に対し退院時に眼底検査を実施していたが、岡本医師は、眼底検査に立ち会つた経験から、眼底検査が未熟児に対しかなり負担の大きい検査であると考えており、原告千恵が無呼吸発作を頻発し、かつ生後四〇日過ぎにも無呼吸発作を起こしているため、眼底検査による呼吸機能への負担から無呼吸発作を誘発することを懸念し、同原告に対しては無呼吸発作の危険をおかしてまで眼底検査をなすべきではないと判断して、眼底検査を依頼しなかつた。

6  被告担当医師の治療上の処置に違法ないし過失があつたかどうかについて

(一)  原告らは、被告担当医師の岡本、新保両医師の治療上の不作為を過失として主張しているが、前記認定のとおり新保医師は本件当時研修医として岡本医師の指導のもとに診療にあたつていたから、原告主張の治療行為の採否について新保医師は独立にこれを判断する立場になかつたというべきである。したがつて、以下の違法ないし過失についての判断は、岡本医師についてのみ検討する。

(二)  岡本医師が、本件当時、本症に対する有効かつ確実な治療法は存しないと考えており、光凝固法の存在を知らず、原告千恵に対し、本症の治療として光凝固を実施しなかつたことは、前記認定のとおりである。

しかし、少なくとも本件当時には、光凝固法は本症に対する治療法として確立していたとは認められないから、岡本医師は、診察に際し、光凝固法を本症の治療法として場合によつては実施すべきことを考慮に入れたうえ治療すべき義務を負わないというべきであり、原告千恵に対し光凝固法を実施しなかつたことにつき責任を負うものではない。

(三)  また、医師は、その当時の医療水準に照らして適切な医療行為をなすべき義務を負つているものであるから、仮に、患者に対しある医療行為を実施することが必要であるが、その設備を有しなかつたり、その医療行為が特別の技術を要する等の事情があり、自ら当該医療行為を実施しえず、かつ、右医療行為に代わる方法がなかつたり、他の方法では不十分であると判断される場合には、直ちに患者あるいはその保護者にその旨を告げて、患者の全身状態、地理的条件等の許すかぎり、当該医療行為が実施可能な他の医療機関へ転医することをすすめ、そのための配慮をなすべき義務(以下、「転医義務」という。)を負つているものと解するのが相当である。

しかしながら、転医義務は、医師が高度の専門家として、自らその当時の医療水準に照らして適切な医療行為をなすべき義務を補完するものであるから、その当時の医療水準に照らして末だ確立していない治療法を受けさせるために転医をすすめ、そのための配慮をなすべき義務を負うものではないと解するのが相当である。

したがつて、少なくとも本件当時、光凝固法が本症に対する治療法として確立していたと認められない以上、岡本医師は、原告千恵に対し光凝固を受けさせるための転医義務を負うものではない。

(四)  岡本医師が原告千恵に対し、眼底検査の実施ないし実施の依頼をしなかつたことは、前記認定のとおりである。

ところで、眼底検査を実施しなかつたことに違法ないし過失があるとして医師に対し本症による失明の責任を問うためには、眼底検査を実施して未熟児の眼底の状態を把握することにより、本症の発症・進行を未然に防止する措置をとるとか、本症に対する治療を行なう等の失明防止のための措置が存することが前提となる。

〈証拠〉によれば、未熟児に対する眼底検査は、進行性疾患である本症の病態を正確に把握し、未熟児の生下時体重、在胎週数等との関係を調べ原因を解明するという研究上の意義の他、臨床的には、本症を早期に発見し、病状の進行を適確に把握したうえ、適切な治療の実施、とりわけ光凝固法の適応、適期判断をするために意義があり、かつて酸素療法において酸素モニターとして眼底検査が有効であるとの見解も存したが、現在では否定されていることが認められる。

そうすると、眼底検査は、臨床的には、本症の治療、とりわけ光凝固法の実施のために意義を有することになるが、少なくとも本件当時、光凝固法は本症に対する治療法として確立していたとは認められず、光凝固法以外に本症に対する有効な治療法は存しなかつたものであるから、岡本医師が、原告千恵に眼底検査を受けさせることが相当でないと判断したことが適切であつたか否かの点はひとまず措くとして、岡本医師には、原告千恵が本症により視力障害を生じたことの法的責任は存しないというべきである。

(五)  医師は、患者に対し、当時の医療水準に照らし、適切な医療行為を実施すべき義務を負つている。そして、医師は、医療行為を実施するにあたり、患者ないしその保護者に、患者の病状、実施した医療行為の内容、患者の予後等について説明するのが通例であり、患者ないしその保護者は、右説明をもとに手術に対する承諾、医療機関の選択等、診療に関する決断をするであろう。しかし、医師が右説明をする場合、医師と患者らとの間で医学的知識の相異、患者らの心理に与える影響を考慮すると、何を、いかに、どこまで説明するかは、それ自体極めて困難な問題を含む。

しかしながら、一般的に医師が患者ないしその保護者に対し医療行為に関する説明をすべき義務を負うかどうかその懈怠について法的責任を負うべきものか否かは、ひとまず措くとして、医師は、未だ確立していない治療法が存することについてまで、患者ないしその保護者に対し告知すべき義務はないと解するのが相当である。

少なくとも本件当時、光凝固法は未だ本症に対する治療法として確立していたとは認められないから、岡本医師は、光凝固法の存在等について告知する義務を負つていなかつたものである。

(六)  右のとおり、被告担当医師の原告千恵に対する治療上の処置について違法ないし過失は認められない。

B 右下肢挫傷について

1  被告担当医師らの措置について

証人岡本義明、同新保敏和の各証言に、前記認定事実を合わせると、次の事実が認められる。

岡本、新保医師は、昭和四六年一〇月二七日、原告千恵の酸血症改善、脱水防止、糖分補給を目的として、原告千恵にアッシャー液の静脈点滴をすることにし、新保医師が原告千恵の右足首の大伏在静脈を切開してポリエチレンカテーテルを右下腿中央部まで挿入して点滴を開始したところ、同月二九日右下脈膝下部付近の点滴部位に腫張を生じ、その後更に表面と皮下組織が壊死するに至つた。

2  被告担当医師らの措置に違法ないし過失があつたかどうかについて

原告らは、原告千恵が右下肢挫傷の傷害を負つたのは、被告担当医師らに(1)輸液の速度が速すぎた、(2)静脈炎の発見が遅れ、そのため治療が遅れた過失があつたことによるものである旨主張するので、この点について検討する。

(一)(1)  〈証拠〉に、前記認定事実を合わせると、次の事実が認められる。

原告千恵は、無呼吸発作を起こすなど全身状態が悪かつたので、岡本、新保医師は、手技的に困難な点もあるが、足首の大伏在静脈から点滴することにしたが、原告千恵は生下時体重一、二七五gの極小未熟児であつて、足首が成人の人差指程度の太さしかなく、大伏在静脈も極めて細い糸状であつたため、一番細いポリエチレンカテーテルを用いた。両医師は、アッシャーの基準により一日当り八〇cc(体重一、〇〇〇g当り六五ccの割合による)、一時間当り約三ccの割合で点滴するよう看護婦は約三時間おきの授乳時間に点滴量を確認した。当時、被告病院には微量点滴セットがなく、自然滴下の方法によつていたこともあり、一〇月二八日一六時には、一時間当り七ないし八cc滴下するなど指示量より多かつたが、両医師は、中程度の点下量は許容範囲内であると判断して、一日の全体の水分摂取量に留意して点滴を続行した。同月二九日午後二二時一〇分、帰宅していた新保医師は看護婦から点滴部位に腫張があるとの電話連絡を受け、輸液を中止するように指示した。

(2)  〈証拠〉によれば、静脈切開を行ないポリエチレンチューブを静脈内に挿入留置し、これによつて持続点滴輸液を行なう方法は、未熟児に対する場合にも最もオーソドックスな方法であるが、未熟児は成熟児あるいは乳児に比してカテーテルの刺激により無菌性の静脈切開性静脈炎を起こしやすいとされていること、そのため右方法による輸液をする場合はなるべく太い静脈を選び、かつ、静脈に比して太すぎないカテーテルを挿入し、等張液を等速度で徐々に注入するが、その場合でも一か所で三ないし四日間程度点滴を持続しうるにとどまることが認められ、前記認定事実に照らすと、原告千恵の静脈炎は、カテーテルの刺激による静脈切開性静脈炎であると推認される。

この点につき、原告千恵の静脈炎が輸液速度が速すぎたことによるものであると主張するが、〈証拠〉によれば、輸液速度が速すぎると肺浮腫や循環障害を起こす危険があるが、乳幼児では一時間当り六〇ないし八〇cc程度にすれば安全であるとされていることが認められるけれども、原告千恵の輸液速度は速いときでも一時間当り七ないし八ccであり、右基準を参考にしてもその一〇分の一程度のものであるし、他に原告千恵の静脈炎が輸液速度が速すぎたことによつて起きたと認めるに足りる証拠はない。

(二)(1)  〈証拠〉に、前記認定事実を合わせると、次の事実が認められる。

新保医師は、一〇月二七日、静脈点滴を開始するにあたり、カテーテルを原告千恵の足首付近で絆創膏で固定し、更に足を動かした時はずれないように副木を踵から膝の上部位まで当てたが、カテーテル部分が観察できるように、副木の上、下部各一か所を包帯で固定した。岡本、新保医師は、診療時に自ら右部分を診るとともに、看護婦に対し、約三時間おきの授乳時に、輸液量と点滴部位の状態を含む全身状態の所見を確認するよう指示していたところ、同月二九日二二時一〇分、当番の看護婦が点滴部位に腫張を認め、直ちに帰宅していた新保医師に右症状を連絡したが、同医師は、しばらく様子を見るため一旦輸液を中止させた。翌三〇日、新保医師は下腿中央に壊死様の変色部を認めたため、九時四〇分カテーテルを抜去した。岡本、新保両医師は、右症状から静脈切開性静脈炎を疑い、また、患部を穿刺して膿のないことを確認したうえ、右治療として、リバノール湿布と細菌感染予防のためケフレックスを経口投与した。岡本医師は、未熟児に対する静脈切開の方法による輸液を本件当時まで約二〇例ほど経験していたが、下肢の腫張やかなり進行した静脈炎の症例についても静脈炎に対する一般的治療法とされる右方法が有効であつたことから、原告千恵に対しても右方法を採用し、しばらく経過を観察するのが適当であると考えていた。

しかし、右治療法を継続しても、原告千恵の症状が改善されず、膿が認められるようになつたため、岡本、新保両医師は、一一月五日、被告病院外科の谷医師に診察を依頼したところ、同医師は右症状を静脈炎による循環不全によるものと診断し、エルエース軟膏を使用したが、同月一〇日には壊死塊が脱落した。谷医師は、その後細菌検査の結果からコリマイシン等を使用したところ、瘢痕を残して治癒するに至つた。

(2)  右事実によれば、岡本、新保両医師および看護婦は、原告千恵の輸液開始後、点滴部位の状態の監視を十分に行なつており、点滴部位に異常を認めてからは、直ちに輸液を停止し、遅滞なくカテーテルを抜去し、さらに岡本、新保医師は、静脈炎に対する一般的治療法を実施して経過観察し、右方法が十分でないと判断すると、直ちに外科医に対し診療を依頼していることが認められ、右医師らの措置が、医療行為として適切さを欠いているとはいえず、したがつて違法ないし過失があるとはいえない。

二被告が岡本、新保両医師および看護婦の使用者であることは当事者間に争いがないが、右のとおり、岡本、新保両医師および看護婦に診療上の違法ないし過失を認めることができないから、被告の使用者責任を認めることはできない。

第五債務不履行責任について

一医療契約に基づく医師の診療債務は、患者の具体的症状に対応して、高度の専門家として、細心の注意をもつて、当時の医療水準に照らして合理的な医療行為(検査、診断、治療など)を選択し、また、その選択された医療行為を実施することを内容とするというべきである。

二そうすると、原告千恵を保育する旨の医療契約が、被告と、原告らのうちの誰との間で成立したかの判断をひとまず措くとして、前記第四で認定した事実関係に徴すれば、被告は、右の内容の債務を履行したけれども不幸な結果の発生を防ぎきれなかつたとみるべきことは明らかである〈以下、省略〉。

(小笠原昭夫 日浦人司 小池裕)

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